割とおいしい飴でした

日々のこと

あ、今日腐れ縁の人の誕生日だ。(特に何もしてない)

こんばんは、紅海です。
冬場はお風呂に入浴剤入れたくなるね。

今日はちょこっと仕事、あとはほぼずっとごはん作ってごはんあげてた気がする。おかゆ作って、大根と手羽元と卵の煮物作って、今日食べさせる離乳食作って、自分のごはん作って……。そんな感じ。煮物は割とおいしくできた。明日はきんぴら作ろうかなー。卵も買いに行こうかちょっと悩んでる。

自分を必要以上に(そもそも必要ない気もするけど)卑下することは、今の自分を大切に思ってくれている人をも貶めることなんだなあと、なんか今日不意にしみじみと実感した。家族とか友人とか、自分のことを必要としてくれてる人がいる限り、自分で自分を傷つけるようなことをしちゃいけないんだなあ、と。自分の命も自分の身体も自分のものだけど、自分だけのものではない、のかな。所有権とかそういう意味じゃなくて、共有財産というか、そういう感じの。
生き物はみんな、許可を与えられなくても「生きていていい」んだなあ。生きる許可は生まれてきた時点で持っているもので、周りの人間に必要とされるから生きてていいとかそういうんじゃないんだ。逆に「死んでいい」生き物はどうなんだろうなあ。気持ちとしては「いない」と言いたい。他の生き物(種族問わず)を「死んでいい」って許可を与える権利は、たぶん誰にもない。他者の生きる権利を奪うことはできない。じゃあ、自分の生きる権利は? 自分で奪うことはできる? 死ぬ権利は、やっぱりたぶん誰にでもある、と思う。でも、誰かに必要とされた存在は、その時点で死ぬ権利もその誰かと共有するのかなあとかぼんやり考えてる。共有財産だから、それをなくすときにも合意が必要、みたいな。少なくとも、自分一人で決めていいことじゃないような。でもどうなんだろう。たとえばいじめられて苦しんで苦しんで、苦しみから逃げるために死ぬ権利を行使することは、共有財産を勝手に毀損することになるんだろうか。大切に思ってくれている親や友人がいたとして、でもその苦しみを伝えられなくて、助けを求められなかったとしたら。死に逃げることを肯定するつもりはないけど、もっと他の選択肢を選んでほしいとは思うけど、責めることもできないなあと思う。
すべてに感謝して生きるなら、こういうことにも感謝するってことなんだよね。たとえ自分の大切な人の命を奪った人間に対しても。もしもいつかそんなことが自分の身に降りかかったら、感謝、できるだろうか。今「もしも」として考えるなら、「時間は有限であり、後悔しても過去には戻れない。できるときに、会えるときに、やれることをやらないと後悔する。それを最も強烈なやり方で教えてくれた」と思うことはできるけど、心から納得できるかっていうとすごく難しい。けど、そうありたい。いやこういう状況になりたいってことじゃなく。

あ、旦那が変な飴ちゃん買ってきたので貼っておくか。

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実に素晴らしい。あと個包装100種類って地味にすごい。全部見たい。

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